●君は右翼?
愛知県東海市の細井平洲記念館を見学し、喫茶店で電子版の篠田竹邑氏による嚶鳴館遺草の現代訳をパソコンに入れ読んでいたら、
「君は右翼だったの?」
と知人に言われ、こちらも、「俺は右翼なのか?!」と驚いた。
封建時代の書物を読んでいると、なぜか右翼という人がいる。横文字を読んでいると民主的な人という。先入観なのだろうが、なんかおかしい。
細井平洲は徹底した実学の人である。学んで思い、考え、実践につながらなければ、学問とはいえない、そう弟子に教え、自分もそれを実践した。
そのため教え方も実践的である。
●実践的教え
==良い役人を循吏・良吏といい、悪い役人を酷吏・賊吏いいます。
循良の役人は、心正しく、欲深くなく、法を乱すことなく、不義非道の指図などせず、慈悲深く、下の者を優しく世話をして、
「こうしたことでは、上が気に入らない」からと言って下の者を苦しめず、また、上を欺かず、家国の将来を心配しながら役目を務める者でございます。
一方、酷賊の役人は、貪欲・依怙贔屓(えこひいき)で、法を曲げ、権威を振りかざし、厳しい指示を下の者に加え、目の前の手柄を得るために、家国の将来のことなど考えず、自分一人の立身出世ばかりを心配する輩でございます。
国に循良の役人が多ければ、君主の徳は万民に行き渡り、民も心からしたがい、これを天地も喜び、祝福して、家国を富ませ、強くして、末永い繁栄が続くこととなり、その様子は、こだまが返るようなものです。
酷賊の役人が多いと、人々嘆き、恨むこととなるため、天地も家国に災いをもたらし、衰退滅亡となるのは、日に影がさすようなもの。
この二つの道理を、よくよく理解して、各々の職の重さを知り、職務に精励する人を忠臣といい、家国の至宝となるものでございます。===
制度は時代によって変わろうと、基本は細井平洲のいうとおりであろう。
●教育の大切さ
細井平洲は教育に大変力を入れていた。現代も教育はさまざまな意見があり、大問題になっているが、現代でも細井平洲の次の基本的考えより、優れたものはないように思う。
===<「幼、壮、老」に応じた教えあることを知ること>
草木を植え、その育つ姿というものは、二葉、三葉から次第に成長し、大きくなって、ものの役に立つような木や草となるまでには、始・中・終という三段階の成長の過程があるものでございます。
草に勁草(けいそう:強い草)、木に堅い木がありますが、そのどれもが、始めの苗草、苗木の時には、すべて柔らかく、真っ直ぐにも育てられるし、また、曲げて育てることもできるもので、これは、「始」の道理。
時間を経た草や木となれば、その性質が元々、強く堅く草木の場合には、年を重ねる毎に、強くなるもので、そうなってからでは、添え木をし、縄を巻き、あるいは、枝を伸ばそう、屈めようとしても、意のままにならないもので、これは、「中」の道理。
花が咲き、実が成り、枝張り、葉茂って、それぞれがその用に立つようになり、終わるのは、「終」。
大切なことは、心を尽くして、この始・中・終の各段階にふさわしい世話をすることでございます。
苗木・苗草の時から、心を尽くし、育てれば、煩いもなく良い木、良い草となって、その用を全うすることができるようになるものです。
しかし、柔らかい苗木なのだからといって、自分の自由になるものと考え、無理に曲げたり、屈めたり、意のままにしようとすれば、どんなに強い草や堅い木でも、枯れたり、傷ついたりして、年月を経て成長したところで、ひねくれ、ねじれて、将来、木材などの用に立たないようになってしまうものです。
これは、草木だけではなく、動物も同じこと。
馬、牛、犬、猫などの動物の成長も、始・中・終の三段階の成長過程があることに変わりはありません。
ですから、こうした始・中・終の各段階の道理をよく理解して、それぞれの段階に無理のないよう育てることが大事なことでございます。
まして、他の生き物と違い、それぞれの成長の段階を自ら自覚することのできる万物の霊長である人間にとって、始・中・終の各段階の大切さは言うまでもありません。
ですから、古の聖人は、人の心を正しく育てるための教えや戒めを多く説き、伝えています。
身分の高い・低い、富める者・そうでない者様々ですが、すべて人としての道を示す教えを捨てて、人としての
生きる道はないものです。
古の聖人は、始・中・終の各段階に応じての、天から与えられた人としてのあるべき心を育むための教えを説いております。
人間としての、始・中・終は、子どもの頃を始とし、成人となってからを中とし、年をとってからを終とします。
この三種の時に応じての教え・戒めは、古来、様々に伝えられていますが、大略は、次のようでございます。
乳を含み、眠り、食べ、遊ぶ子どもの時代には、大人のような分別ある行いを求めないこと、つまり、「かみしも」を着る大人の行うような行いを求めないこと。
また、かみしもを着るような成人になったからといって、頭
はげ、額にしわを寄せた老人のような思慮分別を求め、そうした思慮分別がないからといって責めないことです。
少・壮・老の三つの時に応じた、その成長にふさわしいことをさせるべきであると教えています。
段階に応じた教えといっても、人間は、万物の霊長の中で、最も優れた存在で、また、人の心の霊妙な働きは早いものですから、そうした状況に合わせて、よい心が育ち、良い行いができるよう指導し、教えることが大事なことと教え説いています。
無理を強いることなく、自然と心の成長に合わせて、各人の徳を発揮させることができるのが、聖人の教えであり、まずは、親が手本となることでございます。
<親がまず手本となること>
人の誕生にあたっては、胎懐といって、
妊娠の始めから、父母とも見聞きすることを慎み、生まれくる子どもの幸せを望むもので、誕生してからの子への愛情の大きさ・深さは、いうまでもないことです。
したがって、教えの道の第一は、まず、最初に教える人となる父母が、まず、善悪邪正の心をもっていることが大事な目安で、幼い子自身の資質によるものではないということです。(嚶鳴館遺草 篠田竹邑氏による現代訳 )
posted by ごっとん at 08:02| 東京

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日記
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